9 迷宮としてのデータベース
この章には何が書かれているのか?
大文字のライティングを試みることは形式の力を自覚する上で有用
コンピュータを導入すれば、二項対立を創造的に脱構築していく感覚を実感できる
ソウトライン→アイデアの生成はコンセプトを連鎖させる魅力ある形式の発見
グランド・ヴュー→記述の形式が二項対立の構造に支配されている
アイデア発見やライティングのもとになる資料も、同様の形式性に従って分類・保存されている
その形式が分かりやすいものもあれば、そうでないものもある
フーコー→知識の体系こそが、我々の思考を拘束し、特定の形式に力を与えている
しかし、知識の形式は、一般的に私たちが想像するようなテキストの形式で表現できるとは限らない
人間がテキストを読む行為は、ある種の脱構築と言える
テキストの複雑な言葉使い
屈折する構文
テキストが語ることと実際の世界の矛盾
文字どおりの意味と比喩的意味の混在の生み出す世界
主張とそれを証明する事例との無関係さ
などを手がかりとする脱構築
時間軸にそって順調に流れるテキストの到るところに裂け目を入れる作業
漱石の『草枕』は、プロットも全体の発展もない小説であり、物語展開のサスペンスを追いかける直線的読書の知的快楽の対極にある読書のユートピアであると、前田愛は『文学テクスト入門』で述べている。 私たちの意識は連続している(少なくともそう実感される)
しかし、その意識を表明したテキストは、成立したとたんに意識の流れからは取り残される
その意味で、テキストは痕跡に過ぎず、理解するためには差延(デリダの概念)が必要 差異から出発し、そこからテキストを考える
内側にどんどん入っていき、中心点に達したら今度は逆向きに開いていく
どの個所にも枝道はなく後戻りしなければすべてを辿れる
ルネッサンス以降の近代的な迷路(メイズ)
枝道がたくさんあり、入り口から出口までの最短距離を発見するゲーム
迷路的テキスト(閉じた書物)
直線的読書を可能にするゲームとしての書物
迷宮としてのテキスト(開かれた書物)
プロットがなく、美しい感じが残ればいいという絵画的な、因果論的な時間の支配とは距離がある読書ユートピア
rashita.icon迷宮は、はじめから終わりまですべてを辿ることになる、という意味でリニアあり、そちらの方が直線的であるとも言える。迷路は、たとえ最短ルートがあるにせよ、そうではないバラバラの道がある、という意味で実は開かれているとも言えるかもしれない。この構図がどう変わっていくかは、一応気にしておきたい。
閉じた書物≒迷路としてのテキストは、コンピュータのプログラミングに似ている
意思決定のツリー状の構造
エキスパート・システムは、まさにそのような構造で知識を表していた
医学や法学などでその実装が試されていた
上記のような知識は、現代では特権的な専門領域であり、それがツリー状であることが示唆深いと著者
rashita.iconただし、そうしたエキスパート・システムは基本的には使い物にならなかった。一方で、ChatGPTは、ある程度の有用性を示しているという点を現代では考慮する必要があるだろう。
迷路は一度説くと、次からは簡単に辿れるようになるわけで、そこに神秘性はなくなる
rashita.icon逆に、ChatGPTは別の形の「わからなさ」を備えていると覆う。神秘性とは違う形の不思議さ。
前述の前田愛は、コンピュータ的思考を拒絶していた
人間の知識は、二項対立によるツリー状の体系とその中でライティングを行う直線的なテキストで表現されるものではない
つまり、こういうこと
https://scrapbox.io/files/665fe96a337882001d752a57.png
そして、プログラムはたしかにツリー状の意思決定メカニズムに依存している
しかし問題は、コンピュータは機械(マシン)なのか、ということ
マシンとは、人間の身体の機能を代替するためにデザインされた道具、という含意
コンピュータを使って考えるとは、コンピュータの延長上に人間を置き、人間の精神を機械の模倣と捉えることなのか?
rashita.iconもちろん、この問題提起は「いや違う」という結論に導くための動線として読める。
コンピュータはマシンではない
人工知能研究は衰退した(その後、別のアプローチがある)
マシンとは、人間の身体機能を代替する機械のこと
コンピュータを、頭脳と同じ原理で働くシステムとして捉えることもできる
ツリー状に限定する必要はない
迷宮としての知識体系を処理できる
デューク・エリントン・データベース
どうやって、迷宮としてのデータベースを作れるか
直線的に時間が流れるテキストに裂け目をつけられるか
単純な二項対立ではうまくいかない
迷宮と迷路、直感と合理という分け方は×
迷宮としてのデータベース
×特定のデータをインデックスをもとに探す
○データの中を彷徨して、あらゆるデータを味わい、体験して、もとの場所に戻ってくるようなデータベース
なぜ単純な二項対立ではうまくいかないのか?
迷宮としてのデータベースを考える際には、支配的なディスコースを支えるデータだけでなく、そこから排除されているデータも処理する必要がある
現実には我々はデータに耽溺するユートピアに留まることができないのだ
常に迷宮の中にある知識を使って支配的なストーリーをつくろうという体系化の圧力がある
迷宮を迷宮として維持するためには、固定したストーリーの否定ではなく、同じデータから別種の知識体系、あるいはカウンター・ストーリーを探し出す必要がある
デューク・エリントンのデータベースを作る
狙い
エリントンの音楽の分析をしながら、アメリカ社会の中での今までの定説(黒人音楽をステレオタイプに見る視点)を覆す体系を作る
イージー・レファレンスとハード・レファレンス
音楽はハードの方
データを入れてみる
実際にはどうするのか?
たとえば、資料を録音年代順に並べてみる
するとエリントンの音楽の展開が実感できる
馬鹿にしないで実際にやってみるととても効果的
インテリジェンスト・アシスタント
自然言語で質問する→データベースを根拠にして答えを返す
たとえば「show me the names of the personels with title"
rashita.icon personelsとあるが personalsかpersonnelか
自然言語インターフェース
SRIが開発、自然言語プログラミング(NPL)の一部
NPLはLispを用いて運用されるらしい
データ整理の命令を自然言語で行う
ポイントは「自然言語」で考えること
コンピュータ言語や作表のパターンから自由にデータベースと接することができる
一度自然言語がインテリジェント・アシスタントによってコンピュータ言語に翻訳され、検索の方法が分かってしまうと、データベースは迷宮ではなく、答えの分かった迷路にすぎなくなる。
rashita.icon神秘化の剥奪
ステレオタイプの文化史
西洋以外の文化が存在感を持つには?
西洋文化の形式をそのままなぞれば模倣として扱われる
そこで西洋的な眼差しで自国の文化を眺め、そこに非西洋的なものを見つけたらそれを「民族意識」の拠り所にする
rashita.icon差異の戦略
よくあるのが新古典派アプローチ
ヨーロッパ音楽の形式に、非西洋的なリズムや旋律を入れていく
エリントンは異なる戦略を用いた
新古典派でも無調こそが黒人音楽だという主張でもなく、それまでになかった新しい表現方法を見つけていった
rashita.icon差異と生成変化
開いた書物・迷宮としてのデータベース
一般的なジャズの歴史を扱った書物と、それに対抗するストーリーを持つ別の書籍があるとして、それぞれはどちらも閉じた書籍であると言える。
では、両方の書物のストーリーが同じデータを共有しているとき、そのデータのすべてが含まれているさらに別の書物を想像することができる。
それが、迷宮としてのデータベースであり、開いた書物である
その開いた書物には、通常の意味でのテキストは含まれていない
文字が一列に並んでいるテキストのこと
その代わりに、ハイパーテキストが並んでいる
ありとあらゆるデータが相互に関連しながら、新たなデータをも呼び込んでいるような
非線形的なテキスト
閉じた書物は、迷宮としてのデータベースを二次元の世界に写像したようなもの
rashita.iconネットワークからツリーを切り出す
ライティングの形式や議論の論理性も同様
上記のようなものを目指すザナドゥ・プロジェクト
by テッド・ネルソン
迷宮のような知識の集積をコンピュータでそのまま扱う
ハイパーテキスト、ノレッジ・プロセッサー
何のためか?
データベースの中の知識の体系を自由に再構成していく
ワークステーションではなく、パーソナル・コンピューターで使うことで、単なる情報保存装置となる
システム内に保存されているデータを複雑な手続き無しに体系つけたり、再構成したりすることができる
同じ資料をさまざまな異なる方法で体系付ける
情報の保存場所を巨大に拡大することなく、同じデータを多くの異なった目的に資料できる
統一された構造を持っていて、一つの形式が体系を作った後でも、その形式とは別の体系を作ることができる
rashita.iconたとえばCosenseにおいて、複数のページを参照しながらインデックスページを作ったとしても、それとはぜんぜん違う形のインデックスページを作ることができる。
お互いに構造的に干渉しあうことがない(しかし、参照し合うことはできる)
TsutomuZ.icon の疑問
現実には我々はデータに耽溺するユートピアに留まることはできない p.151
が分からなかった。
rashita.iconここは意味が取りにくかったですね。詳しく検討してみましょう。
というのも、迷宮としてのデータベースを考えるときには、支配的なディスコースを支えるデータも、それから排除されたデータも処理する必要がある。現実には我々はデータに耽溺するユートピアに留まることができないのだ。迷宮の中の知識を使って支配的なストーリーをつくろうとする体系化への圧力が常に存在している。
この前後の文に囲まれています。一応分解しておきましょう。
1. というのも、迷宮としてのデータベースを考えるときには、支配的なディスコースを支えるデータも、それから排除されたデータも処理する必要がある。
2. 現実には我々はデータに耽溺するユートピアに留まることができないのだ。
3. 迷宮の中の知識を使って支配的なストーリーをつくろうとする体系化への圧力が常に存在している。
意味が取りづらいのは1と2の論理的接続、2と3の論理的接続が不明瞭だからでしょう。
それぞれの文をもう少し詳しくみて、解釈する必要がありそうです。
「というのも」
「というのも」は前段からの接続を担っています。
前段は「〜〜ようなデータベースとはならない」で終わっていて、「というのも」は「なぜなら」と同様にその理由を説明する接続節でしょう。
より詳しくみると、迷宮と迷路などの単純な二項対立で捉えていては、迷宮としてのデータベースにはならない、という話。
それを受け手の「というのも」なので、なぜ二項対立で捉えていては、迷宮としてのデータベースにならないか、というのが1の文で説明されると予想できます。
データと排除されたデータの両方を処理する必要
で、1の文で説明される理由は、「二項対立の両方を処理する必要がある」ということ。
支配的なディスコース(これは、そのテキストを支配しているディスコースでもあり、引いてはそのテキストを生み出している文化を支配するディスコースでもある)があり、それを支えるデータがあるが、そうしたデータだけではなく、支配的なディスコースを支えるには役立たない、あるいは壊しかねないデータも一緒に見てこそ「迷宮のデータベース」足りえる、というのが著者の主張。
で、2の文。
上の文で、ディスコースとデータがセットで語られていました。
何かしらのディスコースがあり、それを支えるデータがある。
で、私たちは「データに耽溺する」という状態に留まることができない
ユートピアという表現から、それは好ましい状態ではあるが、しかし現実には存在しない状態というニュアンスが感じられる
で、3の文。
支配的なストーリーは、そのまま支配的なディスコースに読み替えることができる。
私たちは支配的なストーリーをつくろとする「体系化への圧力」が常に存在している
rashita.iconこれは「欲望を持っている」と表現してもよさそう。
僕たちは、何かしらをストーリー化したがる。
これを踏まえた上で、2の文に戻る。
よの中には、まずデータというものがある。事実、出来事、エトセトラ。
ディスコース=ストーリーはそのデータを元に作られる。
そこでは社会的通念や個人の好みなど、何かしらの力を持った支配的なディスコース=ストーリーが選択される
つまり、意味付けされる。
ある意味付けを持ったストーリー、その逆の(あるいは別の軸の)ストーリーを語れない。つまり、偏りがある。
ということで、2の文の意味は「私たちは純粋にデータだけと向き合うということができない」というくらいの意味だと思います。
常にストーリーという偏りを持った形で語ってしまう(データそのものに耽溺できない)
わかりづらいのは1と2の文の接続ですね。
支配的なディスコース+データと、そこから排除されたデータを扱えてこそ迷宮のデータベース足りえる
私たちはデータと純粋に向き合うことができない。
どうしても支配的なディスコースを作ってしまう(だから、それを支えるデータは残るが、そうでないデータは見えなくなるのが一般的で、迷宮としてのデータベースはその両方を扱えてこそなんだ)
という感じで説明の論理が入りくんでいます。
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